君の平和が 狙われてるぞ♪

映画とか特撮とか女児アニメとか。考察厨・雑語り厨です。趣味でシナリオ、小説、SSをわずかに書きます。

(メモ)(自分用)「仮面ライダー平成ジェネレーションズ FOREVER」を筋が通るように解釈・脳内補完

仮面ライダー平成ジェネレーションズ FOREVER」について

仮面ライダージオウと電王を踏まえ、自分の中で全て筋が通るように解釈をしたのだけれど・・・。

 

まずアタルとシンゴが"仮面ライダーが虚構の世界の住人"と言うのは間違い。
はじめにティードが2000年に戻りクウガを消滅させることで"平成ライダー"がテレビ番組の虚構になる。

第一幕でソウゴの記憶が消えていたり、ゲイツツクヨミの人格がじょじょに書き変わるのはライダーが虚構の世界になった影響だと思われる。群衆がジオウに変身するソウゴを見て「ショー」だと思うので、ティードが書き替え「平成ライダーが虚構」になったのはジオウ本編の世界そのもので間違いない。冒頭でゲイツツクヨミの記憶が書き変わっていない理由は不明だけれど、恐らくタイムマジーンにのって時間移動をしていた影響と思われる。
その後、ソウゴや戦兎は「仮面ライダー」としての記憶が保たれるが、これは逃げ出した特異点のシンゴと遭遇した影響だと思われる。こちらはティードの台詞(「なんで仮面ライダーが居る?」的な)から分かる。


ではなぜ、ティードはシンゴを狙ったのか。
シンゴは2000年の時点では、実在としても、フィクションとしても、「仮面ライダー」を知らないからだろう。いくら特異点であっても、そもそも「仮面ライダー」という概念そのものを知らなければ、特異点であっても歴史改変に気が付くことは出来ない。むしろティードはそれを利用し、「仮面ライダーは虚構である」という事実を特異点に植え付け封印することで「仮面ライダーは虚構である」という事実を確定的なものにしようとしたと思われる。
(じゃあ狙うのは2000年の時点の良太郎でも良いのでは?という気もするが、良太郎は劇場版電王などで少年姿のコタロウになったりと、少年時代の時点で仮面ライダーとしての影響を既に受けているので具合が悪かったのだろう・・・)


次にフータロスについて。なぜ「平成ライダーが虚構」になってもイマジンが存在するのか?。
電王本編でイマジンは"消滅した未来の住人"と分かっている。さらにイマジンは、過去の世界と自分が存在する未来が繋がるように歴史を修正するのを目的にしている。なので説1として、劇中のフータロスがティードに敵対し兄弟やジオウに協力する姿から、フータロスはティードがクウガを消したことで消えた=「ライダーが本来の通り実在するはずの未来」の住人だと推測出来る。
また説2として、電王=良太郎は特異点なので、「仮面ライダー電王」はティードによる「平成ライダーの虚構化」の歴史改変を跳ね除けて実在し続けている可能性が考えられる。「電王」の歴史が実在である以上、イマジンもまた実在のままである。
説1と説2の両方を採用し、「(電王以外の)平成ライダーの消滅によって潰えた未来から、(「電王」は実在のままなので)やってくることが出来たイマジン」と言ったところか。


さてその上で、アタルはライダーと怪人の存在について「これは妄想」と発言をしている。ライダーが虚構になった世界でフータロスにアタルは「妄想の中でライダーに会いたい」というような願いを行ったと思われる。
そして契約が完了した時点でライダーは妄想(夢)になったが、本来、ライダーが存在する方が正しい世界なので・・・恐らく、その時点をもって世界は分裂(分岐)をした。
かなり推測が入ってしまっているが、ウォズが「ライダーが虚構の世界」のことを"夢"(=妄想)と表現する台詞が登場するので、「夢」を通して世界が二つ存在するようになった。と考えて良いと思う。


その後、ソウゴ達はダブルライドウォッチと言う、現実と虚構を繋ぐアイテムによってシンゴとアタル、そしてティードの居る世界に戻る。
その世界では「仮面ライダーは虚構」で特異点のシンゴも封印されている為にジオウやビルドの実在が揺らぎかけるが、そこに特異点かつ仮面ライダーである野上良太郎仮面ライダー電王が登場。ジオウやビルドに「仮面ライダーは実在である」として存在を定着させ、ティードに対抗出来るようになる。
また、仮面ライダーの存在は虚構になったが、人々の中には、「改変される前に実在していた本当の歴史」である仮面ライダーの戦い(過去)が、テレビ番組というかたち(記憶)ではあるが残されていた為、電王で度々語られる"過去とは記憶である"通りに、歴代平成ライダーが現実の存在として復活。ティードを打倒する。

しかし、ティードを倒しシンゴを2000年に戻したが、ゲイツクウガの歴史をジオウ本編のようにクウガライドウォッチにして持ってきてしまった為、クウガの歴史はジオウに引き継がれることになる。
つまり、ジオウ本編の世界ではジオウにクウガの歴史が継承され、シンゴとアタルの世界では、2000年以降も兄弟の揃う歴史に修正はされたが、"仮面ライダー"は相変わらず虚構のままふたつの世界が存在することになったのである。
平成ライダーを虚構として楽しむ兄弟」の写真は、この「仮面ライダージオウ」の世界とは分裂し、ティードの改変によって「仮面ライダーは虚構のまま」の世界の様子である。


残る疑問点

・戦兎と万丈
かなり苦しいけれど・・・
ソウゴと万丈が二度目の遭遇に見せかけて実は初対面・・・?と思わせるシーンがあることから、まずテレビのジオウ本編で「仮面ライダービルド」の歴史を奪われた戦兎と万丈では無いと思われる。
恐らく、アタルはティードによる歴史改変により(ライダーが実時するままであれば)本来知るはずのない「仮面ライダービルド」の出来事を把握した上でフータロスに「本物の仮面ライダーに会いたい」と願ったことから、戦兎と万丈は、「仮面ライダービルド」の最終回後のC世界に、限りなく近い世界から呼び寄せられたのではないか。

・映画の第三幕以降で登場するゲイツツクヨミは誰?
助っ人としてきちんと連れて来るシーンがカットされているだけで、分裂した後の、ライダーが実在する本来の歴史(仮面ライダージオウ本編の世界)から呼んで来たゲイツツクヨミだと思われる。

・アナザー電王が居るのになんで良太郎は電王に変身出来るの?
説1.映画本編開始前にティードは良太郎から電王の歴史を奪いアナザーライドウォッチ化したが、良太郎は特異点なので良太郎側も電王としての存在・歴史が保たれている。
説2.分裂した世界の、兄弟(ライダーは虚構)側の良太郎説。良太郎は特異点なのでティードによる"平成ライダーの虚構化"の影響を受けずに、テレビ番組の「仮面ライダー電王」と同時平行的に実在し続けている。
(説1の場合、テレビ本編でジオウが電王の歴史を継承することが不可能になるような気もする・・・)

・ダブルライドウォッチで世界を横断したのってどういうこと?
虚構と現実に、なりきりグッズと強化アイテムとして、それぞれに存在する共通項。グッズのあり方を「現実対虚構」的に絡めた上手い展開ですね。
さてその上で、ここから先だけは私の何の根拠も無い勝手な妄想です。
仮面ライダーWであるフィリップは地球の本棚で地球のすべての記憶を持っています。なのですべての記憶=平行世界の有り得たかもしれない可能性もすべて把握している・・・?記憶を辿って過去に戻るイマジンの力とフィリップの地球の本棚があれば何処の世界へも行くことが出来る・・・?

・電王が登場した瞬間ワープした謎空間
謎空間

・っていうか「クウガの存在を消すと平成ライダーそのものが虚構になる」ってどういう原理・理屈だよ
本当にね
まだ不明だけれど、ジオウ本編の未来がそもそも「歴代の平成ライダーが存在するはずの歴史をオーマジオウがすべて奪い集約させた未来」っぽいので、クウガの歴史はいずれにせよ消えるはずでは?それとも誕生前に消したから違う?なんじゃそりゃ。

昭和ライダーは?
さぁ・・・

・なんでフータロス(風都+タロス?)って名前なの?アナザーダブルって?
フィリップと翔太郎が出演出来なくなった時点で永遠の謎

・やっぱりおかしくない?
身も蓋も無いけれど、そもそもジオウ本編の時間旅行のルールが破綻しているので。
視聴者の観測にのっとって時間が書き変わって行っている。代表的なシーンはティードがクウガの力を奪うのを阻止しようと時間跳躍するも「間に合わなかった」シーン。そもそも時間旅行が出来るなら「間に合わない」など有り得ない。もう一度間に合う時間の過去に飛べばいいだけの話。
ただしこれはジオウ本編でも同じことが繰り返されている。が、恐らく作劇が成立しなくなるので無視されている。電王は特異点の軸を2007年にすることでなんとか苦しい言い訳をしていたけれど・・・

・なんか釈然としない
仮面ライダーは虚構だけれど、君の思い出のなかのライダーは本物だ!」とか言われても、この映画の設定を言葉にしてしまえば、"仮面ライダーは本当は実在しているけれど、悪いタイムジャッカーが存在を消して虚構にしてしまったので、虚構だよ。でも本当は実在だよ"ということになる。けれども仮面ライダーが実在しない我々視聴者の世界は、別にタイムジャッカーが存在を消したから仮面ライダーが虚構であるわけではないので、そんな前提の上での話をされても、むしろ個人的には梯子を外されたような気分になった。
ちなみに「ウルトラマンティガウルトラマンダイナ&ウルトラマンガイア」は「ウルトラマンが本当に元々虚構である世界」が登場するので、あれを参考に考察しようとすると余計に混乱を招くだけなのでおススメしない。

俺もマシンも傷だらけだが

 久しぶりに「新劇場版 ヱヴァンゲリヲン」序・破・Qを見たんですが、10代の頃、新ヒロインの真希波・マリ・イラストリアスが凄く好きだったのを思い出しました。

 チェックスカートに赤い眼鏡と言った、それまでの「エヴァ」に居なかったゼロ年代アイドルみたいな格好だったり、「敵かな?味方かな?」という単純なサスペンスが興味を引いたってのも勿論あるんですが、すっかり国民的アニメ作品になってしまった「エヴァ」の・・・というか、あんなナリで国民的アイコンになってしまった"綾波レイ"、"惣流(式波)アスカ"の二大巨頭ヒロインに向こう張って、「第三のヒロイン」ヅラしているマリが、図々しくて好きだったんですよね。様々な企業との「エヴァ」コラボ広告だったり、版権仕様もののグッズ上で、あたかも「元から居ましたけど?」とでも言わんばかりの顔をしているのは、なかなかに痛快です。

 あと、正体不明でわけわかんないマリに対して、「俺だけが理解してる!」みたいなイキりもありました。「新劇場版 ヱヴァンゲリヲン」においてシンジだとかレイだとかアスカだとかと言った、お馴染みのキャラクターの心理描写や掘り下げが「もう皆なんとなく知ってるやろ」で結構バッサリ省略される一方、新キャラクターであるマリは旧「エヴァンゲリオン」分の情報がごっそり存在しない分、本当に何が何だかわけのわからない存在で、なので「こいつは何なんだ」と当時は真面目に考察したりしました。

 まぁ、「新劇場版」は考察しようにも情報が欠如し過ぎていてわかりようが無いんですが。ひとつ思ったのは、「新劇場版」はエヴァンゲリオン初号機が覚醒したところで、「翼をください」が流れる映画なわけですから、そこは一定の「ルール」として、歌に嘘は無いと考えて良いと思ったのです。つまり、「マリが口ずさむ歌に嘘は無い」ということです。"コイツは「365日のテーマ」を口ずさんで登場するから前向きな奴なんだ"。"アスカと一緒に戦えるから「ひとりじゃないの」は本気で嬉しいんだ"といった感じで、マリの心理状態についての考察は出来るわけです。

 「正体不明でわけわかんない女の子の、実は素直で可愛らしい側面を俺だけが知っている!」永遠の夢ですよね。オタクの。

紙の日記を書こう

皆さん日記って付けてますか?

私、そろそろ30が見えてきた良い年した男なんですけど、紙の日記をつけてるんですよ。

で、これを人に言うとそこそこな割合で「え?w」みたいな反応が返ってくるんですが。いいじゃないですか。別に良い年したサラリーマンの男が日記を付けてたって。

 

さて、一応、タイトルで「書こう」と煽ったので、そもそもなぜ私が日記を書くようになったのか。そして日記を実際に書いてみて効能があったのかを挙げて行きます。

 

・何かモノノ本で、「ライターや作家に憧れている人間は日記を書け」とあったのを読んだような気がする。

→"文章の練習"だけでなく、思ったことを書くクセをつけろみたいな話だった気がします。でも私ってそもそも文筆に憧れてたっけ。すべてが曖昧過ぎる・・・


・食べたものや日々の雑事など、手元のノートやSNSに書くのすら戸惑われる、どうでもいいことを一応書き留めておくことで思考がすっきりする。

→これは効いてると思います。安心して忘れられる。という奴でしょうか。頭の引っかかりをバックアップして思考のバッファを増やすソリューションです(このカタカナたち使い方あってるか?)


・死恐怖症のケがあるので、自分の生きた記録が最後は燃やせる(自然の循環に返る)有機物の物体として存在している方が安心できる。

→若干ですが、これもなんとなく効いてる気がします。SNSやブログのようなデータはどこかのサーバールームが爆発して吹き飛ばされたら、塵も残らないんです。虚しい。仮想現実なんて無かった。

 

・殺人鬼や革命家、作家や映画監督など、ヤバい人たち(人生ガチ勢)はなぜか日記をつけたり手記を持ち歩いているイメージがある。

→あれですね。「野垂れ死んだ彼の外套のポケットには、聖書と少しのコインと日記替わりの紙切れだけが残されていた・・・」的なやつですね。「ウォッチメン」のロールシャッハとか、あの感じ。私も日記の他に、出勤用の鞄には必ずニーチェを入れています。マジかよ。

 

それと日記を書くようになってからの実感なのですが、

・自分の考えや感情を言語化して吐き出すのに、躊躇が薄くなった気がする。

→これ、効果としてカウントして良いか微妙ですね。はっきり言って社会で生きる大人としては危険ですらあると思います。

  

オチも無いので、最後に自分なりの日記を続けるコツです。

何もルールを決めないことです。何日ごとに書くのか、一度の分量をどのくらいにするのか、何を書くのか、そして何を書かないのか。何も決めずに、ただ持ち運べるくらいに小さく、書きにくくないくらいに大きなサイズの、罫線の付いたノートを用意する。あとは書きたいときに日付と区切りの線だけを手で引いて、書く。うーんエモい。